独逸万国霊泉博覧会とは?

長野県小谷温泉山田旅館に「内務省御選抜 独逸萬国霊泉博覧会出泉」という明治時代から伝わる看板があるという

写真出典:いつきさん

この「独逸萬国霊泉博覧会」というイベントは何であったのか?

レファンレンス共同データベースに下記の先行調査がある
2014年「独逸万国”霊泉”博覧会の記述のある資料、情報を探しています
2016年「【湯涌温泉について】  湯涌温泉観光協会ホームページに、湯涌の水が「大正初のドイツで開かれた万国鉱泉博覧会に日本の名湯として出展」とあり、また、何かの賞(一等、金賞)を取ったと聞いた事があるが、この根拠となる資料が見たい。(世界三大鉱泉なども)

国立国会図書館デジタルコレクションで検索した結果と先行調査を見比べた結果、おそらく以下であると想定される。

「萬国霊泉博覧会」は間違いで、正しくは明治14年(1881年)にドイツ フランクフルト市で開催された「萬國鑛泉博覽會」。

東京医学校(現 東大医学部)に招聘されたドイツ人医師 ベルツ氏は、明治12年(1879年)に「日本温泉浴案内」、明治13年(1880年)「日本鉱泉論」という本を出版するぐらいの温泉について一家言があり、鉱泉に関する論文も出していた。

ヘルツ氏の論文や成分分析調査資料などを活用して、明治14年(1881年)の ドイツ フランクフルトで開催された万国鉱泉博覧会に出品した。

また、この際に使用した資料を利用し、明治19年(1886年)に「日本鉱泉誌 上巻」「日本鉱泉誌 中巻」「日本鉱泉誌 下巻」が発行された。

万国鉱泉博覧会では、何らかのPRIZEが設定されていたようだが、詳細は不明

以下の温泉については出品した、とする書籍があった。

京都府 大日本山城稲竈天然炭酸泉(現 笠置温泉): 好評を受け
長野県 小谷温泉: 出品し
石川県 山代温泉: 出品して優等の推賞を受け大いに名誉を博した
石川県 和倉温泉: 世界第三等の鉱泉であるとの審査成績を得賞賛された
石川県 湯桶温泉: 出品して日本三鉱泉の一に数えられて以来
石川県 狼煙鉱泉(現 禄剛崎温泉): 出品したこともある

また、小谷溫泉には「明治42年(1909年)に内務省が特選」して「万国鉱泉博覧会に出品」という記述もあるが、明治25年の書籍に「明治17年の交独逸国霊泉博覧会」とあるので「内務省が特選」があとが正しいと思われる。


疑問点まとめ

石川県の温泉4つで関連する記載がある。

1933年発行の「石川県に於ける温泉の研究」に下記記載があるが湯桶温泉だけ年代が書いてない
山代温泉: 明治13年には独逸国の万国鉱泉博覧会に出品して優等の推賞を受け大いに名誉を博した
和倉温泉: 明治13年独逸国において万国鉱泉博覧会<略>世界第三等の鉱泉であるとの審査成績を得賞賛された
狼煙鉱泉(現 禄剛崎温泉): 明治13年独逸の万国鉱泉博覧会に出品したこともある
湯桶温泉: 独逸の万国鉱泉博覧会に出品して日本三鉱泉の一に数えられて以来

実際、2024年現在湯桶温泉の自称は「大正初のドイツで開かれた万国鉱泉博覧会」と明治13年ではないらしい。ただ、この大正初めの万国鉱泉博覧会に該当するイベントが見当たらない
また、「日本三鉱泉」という割に他2つについて自称しているところがない。

和倉温泉は「明治13年の万国鉱泉博覧会で世界第三等」としているが、明治29年の和倉温泉紹介で「萬國衛生博覽會 で 世界第三等」と別のイベント名が確認できる。
また明治32年の和倉温泉紹介で「明治16年独逸国博物館において分析試験し、萬國第三等の名誉を得たるはこれなり」と明治16年説もあったりする

明治14年にドイツフランクフルトで開催された万国鉱泉博覧会については資料があるが、明治13年にあった、というものは石川県3温泉の自称以外に出典が見つけられない

長野県 小谷温泉 は明治25年出版書籍で「明治17年の交独逸国霊泉博覧会に出品」とするが、該当するイベントは小谷温泉の自称以外に見当たらない


以下、調査した詳細


商標的な万国博覧会ではない

第1部 1900年までに開催された博覧会 博覧会一覧(年表)には該当するものがない

1970年発行「日本博覧会史」の「世界における博覧会開催年表」を確認すると後述の博覧会を含めて下記の博覧会が確認できる。

・明治13年 1880年4月~(終了日未記載) ドイツ ベルリン万国漁業博覧会 (日本政府参加,漁業に関する展示)
・明治14年 1881年5月~10月 ドイツ フランクフルト鉱泉学博覧会 (日本政府参加,出展内容の記述無し)
・明治17年 1884年5月~(終了日未記載) イギリス ロンドン万国衛生博覧会 (日本政府が参加)
・明治44年 1911年5月~10月 ドイツ ドレスデン万国衛生博覧会 (日本政府と民間が参加,陸軍海軍も参加)

終了日未記載のものは、他の博覧会日程と比較する限りでは、3ヶ月か6ヶ月の開催と思われる

日本が出展することになった立役者は ベルツ氏?

記述をみていくと、医師 ベルツ氏がイベントに関連しているのか?と思われる記述がある

明治43年発行の「日本転地療養誌 : 一名・浴泉案内」の93ページからの「鑛泉療法の誘導編」の注釈に「鑛泉の化学」という注釈があり、博覧会出展のきっかけがベルツ氏というものがある。

聞くところによれば、当時の我御教師ベルツ氏の首唱により萬國鑛泉博覽會への出品のためさしめしものなりと

また、明治21年の現在の笠置温泉 にあたる 山城稲竈天然炭酸泉 の広告にもベルツ氏が登場している。

大日本山城稲竈天然炭酸泉
医学大学教師 ドクトルベルツ氏賞賛

この天然炭酸泉は明治10年内国勧業博覧会の京都博覧会で賞杯を受け、13年独逸国において萬國鑛泉博覽會で好評を受け

中外医事新報 (197) 56ページより (1888年6月)

で・・・ベルツ氏、というのは、東京医学校(現 東大医学部)の内科学教授 で、明治13年に「日本鉱泉論」を発行し、温泉の改革・・・具体的には伊香保温泉の改革を行った人である。詳細は「伊香保誌 ベルツ博士と伊香保」を参照

臨床科学 22(1)(346)(1986年1月)の115ページ「鉱泉分析」では「明治14年(1881)ドイツ フランクフルトで開催の万国鉱泉博覧会出品の日本側資料は ベールツの成分分析調査資料が活用された。それをもとに集大成したのが日本鉱泉誌(明治19年刊)である」とある(この紹介では、最初長崎に赴任し横浜などの司薬場勤務のオランダ人ヘールツ/ゲールツ氏が、鉱泉分析におけるドイツ人ベルツ氏と同一であると混同している)

明治13年、明治14年と明治17年の3種類がある模様

ドイツで開催された温泉に関する博覧会の記述を探していくと、明治13年、明治14年、明治17年の3種類が出てきた。

小谷温泉は明治17年説を取る

小谷温泉が出たのは明治17年の独逸萬国霊泉博覧会 であるとしている。

元湯の外国博覧会出品
明治17年の交独逸国霊泉博覧会 より我が政府に出品を依頼せしに政府は各県知事に命じて良鉱泉の指定井にこれが出品をなさしめたり、本泉は長野4泉中に編入され北安曇郡役所を経て該会へ回送せり

小谷鉱泉記 19ページ(明治25年出版)より

ただ、一時期は「1893(明治26)年、ドイツで開催された万国霊泉博覧会に別府・草津・登別の各温泉とともに内務省により選抜・出泉され(出典)」などとしていた時代もあるようだ。

官報ベースだと明治14年

官報によると明治14年(1881年)の万国鉱泉博覧会 はベルリンで開催されたと読めるのだが、明治19年に刊行された日本鉱泉誌では、明治14年にフランクフルトで開催された万国鉱泉博覧会 のための資料を基にしている、と書かれている

●鉱泉博覧会
さる明治14年中独逸国伯林府より万国鉱泉博覧会の挙ありしがその際我が内務省衛生局より全国の鉱泉井より諸表の温泉場写真などを出品せしうるがこのたび同国より優などの賞杯を送られたる

中外医事新報 (82) 21ページより 明治16年(1883年)8月 (上記の引用は全文ではない)

去ル明治十四年中獨逸國伯林府萬國礦泉博覽會開設ノ際我カ內務省衛生局ヨリ全國ノ礦泉並之ニ屬スル諸表及温泉塲寫眞圖等ヲ出品セシカ此ノ程同國ヨリ優等ノ賞牌ヲ贈付シタリ(內務省報告)

官報 1883年08月03日 3ページ より

明治14年独逸国フランクフルト府の萬國鑛泉博覽會を開設せし際我が政府より全国の鉱泉

日本鉱泉誌 上巻 2ページ より

伊香保温泉は「伊香保誌 明治時代の伊香保温泉の分析と適応症(205ページ)」によれば、明治14年 フランクフルト市で 万国鉱泉博覧会 と記載。

和倉温泉は明治13年

和倉温泉では明治13年の万国鉱泉博覧会ということで広告を出していた。ただ、こちらについては開催地に関する言及が見つからなかった。

(和倉温泉の説明の中で)
明治十三年獨乙の萬國鑛泉博覽會に於て世界中第三等の地位に推され

浦潮案内 119ページ より

和倉温泉案内
和倉温泉は世界の三等泉なり

~まず、世界の三等泉であるというのは、明治13年独逸国において、萬國鑛泉博覽會が開設せられました時、同会へ出品いたしまして、和倉温泉は世界の鑛泉中の第3位に推薦されましたのです。

和倉温泉案内 (大正9年)より

現代の商標登録「和倉温泉(わくらおんせん)」の説明にも明治13年とある

明治13年のドイツ万国博覧会で「世界三等鉱泉」の栄誉に輝いております。

1933年の石川県に於ける温泉の研究 に萬國礦泉博覽會に出展した各温泉地に関する記載がある。ただし、湯桶温泉についてだけ、具体的な時期が書かれていない。

山代温泉: 明治13年には独逸国の万国鉱泉博覧会に出品して優等の推賞を受け大いに名誉を博した
和倉温泉: 明治13年独逸国において万国鉱泉博覧会<略>世界第三等の鉱泉であるとの審査成績を得賞賛された
湯桶温泉: 独逸の万国鉱泉博覧会に出品して日本三鉱泉の一に数えられて以来
狼煙鉱泉(現 禄剛崎温泉): 明治13年独逸の万国鉱泉博覧会に出品したこともある

和倉温泉の「世界第三等」は明治29年の「能登誌 初編」の「和倉」で確認できるが前後を確認すると「元湯は~独逸国に萬國衛生博覽會あり推して是泉を世界第三等に置きしかば」と万国衛生博覧会に出展したとあり謎が深まっている。

この「萬國衛生博覽會 で 世界第三等」という表記は明治31年の 七尾鉄道旅行案内記の近刊広告 にも見られるが、明治32年「北陸鉄道七尾鉄道中越鉄道案内記」が実際に発売された書籍と思われるのだがこちらの「和倉温泉」では「明治16年独逸国博物館において分析試験し、萬國第三等の名誉を得たるはこれなり」とまた違う情報が出てくる。ただ、明治14年に出展したことについて明治16年8月に日本国として賞をもらった(個別プロダクトでもらった根拠は未発見)という官報が存在しているのでそのことを指している可能性がある。

京都の 現 笠置温泉も明治13年

大日本山城稲竈天然炭酸泉
医学大学教師 ドクトルベルツ氏賞賛

この天然炭酸泉は明治10年内国勧業博覧会の京都博覧会で賞杯を受け、13年独逸国において萬國鑛泉博覽會で好評を受け

中外医事新報 (197) 56ページより (1888年6月) 山城稲竈 は現在の笠置温泉

現代の湯涌温泉は大正時代説

湯桶温泉観光協会の総湯 白鷺の湯の説明に下記のように「大正の初め」と記載。

大正の初めドイツで開かれた万国鉱 泉博覧会に当時の内務省の推薦により日本の名泉として出展、泉質の良さが認められました。

前述の昭和8年(1933年)の石川県に於ける温泉の研究 でも湯桶温泉だけ明治13年とは書いていないので、矛盾はしていない。

表記揺れ?開催場所の違い?

博覧会の名称も表記揺れがあるが、おそらくは「萬國鑛泉博覽會」が正しいものではないかと思われる。

独逸萬国霊泉博覧会 / 交独逸国霊泉博覧会

小谷温泉山田旅館にある看板の記述で、この「靈泉」という表記は 小谷温泉のものしか見当たらない

大信濃 767ページ (昭和15年) (小谷溫泉も曩に内務省の特選に入り、獨逸萬國靈泉博覽會へ本溫泉水の出品を爲し)
大信濃 1338ページ (昭和15年) (先年內務省の選拔により獨逸萬國靈泉博覽會に出品し、又昭和四年國民新聞主催の全國溫泉投票に優位を占め)

小谷鉱泉記 19ページ (明治25年) (明治17年の交独逸国霊泉博覧会 より我が政府に出品を依頼せしに)


萬國礦泉博覽會

たぶん写植ミスじゃないかなぁ、と思われるのが「礦泉」と石編の漢字を使っているもの。

官報 1883年08月03日 3ページ (萬國礦泉博覽會)

明治19年発行”法越交兵記”掲載の「日本鉱泉誌」の広告 (独逸国フランクフルト府萬國礦泉博覽會へ礦泉の出品の挙あるに際し蒐集せし)

万国鉱泉博覧会 / 萬國鑛泉博覽會

中外医事新報 (82) 21ページ (万国鉱泉博覧会)

日本鉱泉誌 上巻 2ページ (“独逸国フランクフルト府の萬國鑛泉博覽會”)

醫海時報 (811) 10ページ “回顧すれば明治14年、余がまだ卒業前の一学生であった頃、独逸の「フランクフルト、アム、マイン」に萬國鑛泉博覽會が開催された”

日本温泉案内 西部篇 150ページ 小谷温泉の説明として”明治42年内務省が本鑛泉を特選して独逸の萬國鑛泉博覽會に出品してからますますのその名声を高めた”

公衆浴場史 445ページ 1972年 “1886年 日本鉱泉誌 内務省編、独フランクフルト万国鉱泉博覧会用”

ズームイン日本 第5巻 132ページ 1984年 湯涌温泉の説明として”大正時代にはドイツで催された万国鉱泉博覧会で世界三大銘泉の1つに選ばれるなど”

大正期にも日本の温泉が出展した博覧会があった

次に刊行されたものは、いずれも官邊の編纂になる立派なものである。外国で開かれた博覧会が編纂の動機となっていることは、いずれもその揆を一にしているのである。すなわち、日本礦泉誌(1886年)はドイツのフランクフルトで催された萬國礦泉博覽會のために編纂された邦文書であり、Bade-und Lufutkurotte Japans (1911年)は、同じくドレスデン市で開かれた萬國衛生博覽會のために書かれたドイツ文書であり、 The Mineral Springs of Japan(1915年)は パナマで開かれた萬國平和博覽會のために発刊された英文書である。

温泉言志 248ページ より(昭和18年)

上記の情報を元に調べると別府温泉地球博物館「温泉化学 第3回 日本での地球科学的温泉研究のあゆみ(1)」「温泉化学 第4回 日本での地球科学的温泉研究のあゆみ(2)」が出てくるが、情報的には大して変わりはない。

明治44年(1911年) ドイツ ドレスデン市 萬國衛生博覽會について

保健彙報 (7) (1912年3月)に「三、一九一一年獨國ドレスデン萬國衞生博覽會視察記/p93~97」という視察報告があるが、鉄道院なので鉄道よりの報告内容

官報 1912年08月30日 「彙報 ドレスデン萬國衞生博覽會顚末報告(内務省)/p525

時系列が疑問な小谷温泉の記述

昭和5年の日本温泉案内 西部篇 小谷温泉の説明に以下がある。

明治42年内務省が本鉱泉を特選してドイツの萬國礦泉博覽會に出品してから、ますますその名声を高めた。

明治42年(1909年)に特選を得てから、明治14年/17年に出せるわけが無いので、上記記載はおかしい。

この時系列にあわせると、明治44年(1911年)ドイツ ドレスデン市 萬國衛生博覽會に出品したことになるが、そもそも、明治25年出版の小谷鉱泉記 19ページ で明治17年に出品したとあるので、内務省の特選をとった方があとだと思われる。
それとも、明治17年と明治44年の2回出した、ということなのか?

鉄道院・鉄道省による旅行案内書での記載

2002年の関戸明子氏「北関東における温泉地の近代化 : 温泉の利用形態と交通手段の変化」に「鉄道院・鉄道省による旅行案内書の編纂」という項目があり、明治43年「鉄道院線沿道遊覧地案内」という非売品から始まり、大正2年「鉄道沿線遊覧地案内」から市販された。また「温泉案内」という書籍が大正9年から発行された。といった記載があった。

明治42年6月 鉄道院線沿道遊覧地案内
明治43年6月 鉄道院線沿道遊覧地案内
明治44年6月 鉄道院線沿道遊覧地案内

大正3年 鉄道旅行案内(モノクロ/文字認識あり), カラー/文字認識なし
大正4年 鉄道旅行案内 [大正4年版](モノクロ/文字認識あり)
鉄道旅行案内 大正5年版
鉄道旅行案内 [大正6年版]
鉄道旅行案内 [大正7年版]
鉄道旅行案内 大正10(カラー/白羊社書店), モノクロ/文字認識あり/鉄道省
全國鐵道旅行案内 大正11年度
大正13年 鉄道旅行案内, カラー/文字認識あり/博文館
昭和5年(1930年) 鉄道旅行案内(カラー/文字認識あり/鉄道省)

上記の鉄道旅行案内では、各地の温泉地について存在は紹介しているが、どの温泉地が人気とか賞に選ばれてるとかそういう記載は基本的にしていない模様。

大正9年 温泉案内(カラー/文字認識無し),モノクロ/文字認識あり
昭和2年 温泉案内(カラー/文字認識あり/日本旅行協會)

大正9年の温泉案内において、小谷温泉和倉温泉山代温泉は交通手段と効能、付近の見所、旅館について述べているのみで、博覧会に関する言及はない

昭和2年温泉案内でも同じ。こちらには湯桶温泉の項目も追加されている。

鉄道省とは関係ない温泉案内を探すと・・・

大正6年 日本温泉案内 : 保養遊覧 附・入浴者の心得(誠文堂)
大正10年 天下の霊泉大湯温泉案内

大正6年のやつの「山代温泉」には「明治13年にドイツ国で開かれた万国衛生博覧会にて優等賞を得たるごときはまさに帝国温泉の名誉とされている」、「和倉温泉」にも「明治13年~世界第三位との評定」と記載している。

同時期の鉄道省主導のものと民間主導のものを比較すると、おそらく温泉地が自称している内容をそのまま使っているのが民間のものではないか?といった疑惑が生まれてくる。